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大人の写真館/一番美しく 

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「あなたのストーリー

聞かせてください。」

第一回ゲスト2019年7月29日 

石井しのぶ​さん(64才)

 

​職業

小規模認可保育園

ぽんておうちえん園長​

​​​記念すべき第一回目のゲストは、以前に私達の息子(三男)を通わせていた保育園の園長先生です。

妻の仕事復帰をするために三男を預ける事になり、その一時保育が「ぽんておうちえん」(当時は無認可)。

この保育園は想像していた無認可保育園のイメージと違い自由で笑顔いっぱいの保育園でした。

希望していた認可保育園に空きが出るまでの臨時の位置付けでしたが、今思えば短い間でしたが​とてもいい思い出になっています。

いつでも笑顔で「ハーイ」と元気一杯のしのぶ園長、なんでそんなに元気なの?。取材を通してどんな人生を送ってきたのか、人柄も含めて迫って見たくなり取材をお願い致しました。

そこで分かってきた事は、「やっぱり人に歴史あり」あんですね。

​父からの影響が大きかった。

 

(杉田 以降Qと略します。)

しのぶ先生こんちは!

 

(しのぶ園長 以降Aと略します。)

杉田さん、お久しぶりです。

 

Q 早速お話を聞いて言っていいですか。それでは自己紹介お願い致します。

 

A はい。石井しのぶ 昭和30年/1955年生まれです。今年で64才。亀戸育ちで小学校の時に千葉県船橋市に父が家を建てたのでそこで育ったんです。

Q そうなのですね。江戸っ子ですか?

​ A いいえ私は違います。でも父は東京本所生まれの三代続く江戸っ子ですよ、母は富山出身であと弟が一人います。

Q 1955年生まれ。ということはご両親は戦争を体験しているんですね。

​A はい。父は特攻隊の出兵待ちで終戦を迎えたそうです。父はその後は大手電気メーカーに勤めていました。杉田さん、私の父は左翼思想の人で勤めていた会社の労組で活動していました。だから平等とか改革、みたいな言葉や弱者を救済する父の熱い博愛精神が小さい頃から家でも飛び交っていたんですよ。小学校の時からよくメーデーとかに連れて行かれてましたね。

Q サヨク?!、、いきなり左翼と来ましたか、、これは想定外な展開です。私の記念すべき第一回目から、、マジですか、穏やかに始めたかったのですが(笑)。じゃズバッと聞いちゃいますがお父さん会社に憎まれて出世しなかったんじゃないですか。

A はい、そうですね。多分出世はしていなかったと思います。それでも大手のヒラですから普通に暮らせていたので、父の会社での立場はわからなかったし、父が私に何か強制的に自分の思想を押し付けるとか一切無かったので、後から思えばかなり左翼思想な人だったなーみたいなぐらい。

 

でも父の個性はとても強かった。教育に関しては、あーしろこーしろと言わないんですが、父らしい出来事の思い出は、弟と毎週土曜日に父から、今週のよかったこと、嫌だったことをあげなさいとか。。。。。なんてあったなぁ、いやー懐かしい。思想の強制はなかったけれど、博愛の精神や平等に人をみる事は知らず知らず私の人格形成に入っているんでしょうね、きっと。社会的地位の高さで人を見ることが少ないのはきっと父からの影響だと思います。

Q お母さんはどういう人でした。

A 私の家族は母で保っていた家ですね、父は昭和一桁世代の頑固さを持ち合わせていしたので、家事はまるでダメ。母は一言で言えば、可愛いひと。いつも自分のことを無学で無知で何もわからないと言いながら、我が家を仕切っていたのは間違いなく母でした。とにかく愛情深く人の世話を焼くのが好きな人なんです。父も含め母が家族全員を見守っていました。いつも愛情を注いでくれた母が大好きです。

 

そういえば父は仕事姿の印象が強く残っていますが、子煩悩な人でもあり、寝るときに面白おかしく話してくれたのはいつも父でした。こうして改めて思い出してみても私は父と母に愛情たっぷりもらって育っていますね間違いなく。

Q しのぶ園長の学生時代はどうです。例えば60年代、70年代がきっと青春時代ですよね?70年代の僕は幼稚園から小学校生あたりで、覚えているのはスーパーカーブームとか映画だったら「サタデーナイトフィーバー」が流行っていたりして、ドラマは多分再放送で見てたと思うけど「ジュリー!」と叫んでいたドラマとか加山雄三バージョンの「高校教師」とか覚えてます。あれ僕には相当大人のドラマに思えました。その頃のしのぶ園長は?

A そうそう、ありましたねーそんなドラマ、60年代から70年代はまさに青春時代でしたね。私はディスコとかは行ったことないんです、当時のそういう流行にはあまり興味が無かったんです。

Q 60年代とか、ちょうど学生運動とかの時代ですよね。

A 私の世代(1955年/昭和30年)は団塊の世代のちょっと後の世代で、「大人しい世代」と言うか、団塊の方々は勢いがほんとスゴクてヤンチャな人たちが多かったので、ちょうど私が小学生から中学あたり(60年代後半)が学生運動の全盛期だったので、先生達も「この子達がこうなってはいけない」みたいに抑え込んで教育していたところもあったりして、学生運動とか私には少し距離がありましたね。

Q やはりすごかったのですね団塊世代の人は。でも以外に「静か?」と言うか​、、スクスク育ったのですね(笑) いきなり左翼の父がときたので逆の青春時代かと思いました。その頃にはもう幼稚園の先生になりたかったのですか?

A はい。もうそのころには思っていました(笑)。私ブレたくてもブレられないんです。​そういう性格なんです。

Q そんな感じですねー、何事もブレなさそう。

でもね杉田さん、実は私自身、私立保育園に入園してひとつきほどで登園拒否して、結局いってないし、小学校も入学式の1週間後なさから半年くらい登校拒否でした。 なにが原因かははっきり覚えてないのですが、とにかく行きたくなかった、という意識は覚えています。その頃からの幼なじみはやがて幼稚園の先生になったと聞いて、びっくりしたそうです。わからないものですね。

Q 先生がですか?信じられないです。幼稚園からもうある程度人格が現れるのかなと思っていました。

ご両親の若い頃 美しいお母さんですね。

ご主人実家は農家。お嫁に入って自分の人生が大きく動いていく。

Q ご主人ともブレずにご結婚されました?(笑)

 

A そうですね(笑)主人とは高校の同級生でそのころから交際していて、この人と結婚するんだと思っていました。

Q やっぱり(笑)ご結婚はいつですか、確かお子さんは4人でしたよね。

A 23才に時です。幼稚園の資格をとって3年目ぐらいの時ですね。子供は翌年には長女が生まれて三女一男の4人です。主人は大学を出て建築の設計士で実家は千葉県松戸市の農家だったんです。そこで主人と私に子供4人と農家のご両親の家で暮らしていまいた。

Q 大家族ですね。幼稚園のお仕事は続けていたのですか?

A しばらく続けていましたがその後家庭に専念しました。まだその当時は0才、1才、2才、で子供を外に預けるなんて、それこそ批判の的で特に保守な農家の家庭ではあり得ない選択でしたね。それこそ「子供に愛情がない母親」なんて考える人が多くて、お母さんの風評が悪くなってしまうこともある時代でした。

Q ズバリ聞いていいですか、お嫁に入って大変でしたか?

A 今だから言えますが、そりゃもう大変でしたよ、戦いですよ。すべてを受け入れるのには時間がかかりました。他人と暮らすとはどういうことなのか、何も考えないでお嫁に入ったので大変の連続でした。

Q 特にどのあたりが?

A 例えば、うちはある党を支持していますから、今日からあなたは、この党の党員です。この党に投票してくださいね選挙の時は応援も手伝ってください。えっ!政治、信仰の自由は確か憲法、、ちょっと、、そこまで、、ほんと?!

 

今でも私は政治的な思想はないほうで、自分の信条以外の考えを持つ方でも敬意を持って受け入れていけますし、そのことで人の人格を決めつけたりしない自信があります。この部分は父から受け継いたんだと思っています。でもあの時は困りました、反発もしました、そして自分の出自や信条をはじめて考えました。

 

私はほとんどの物事に対して、ちゃんと理由を添えて説明してくれれば受け入れていけるとは思っていたけれど、「これはしきたりです」や「言う通りにしてください。」など悪気はないと理解はできますが、それを差し引きしても私の反応を考えずに当たり前のように言われ、嫌でも受け入れざる得ない状況だったんです。

 

生まれて初めて思想や信条の違いによる反発心を覚えました。

一番ショックだったのは、自分自身に起こった一連の出来事に対して、自分自身の心の反応自体が予想外でショックでしたね。私ってこう考えるんだ?みたいな。

Q 人生はまさに松戸市から始まったみたいですね。普段は他人に仕切られても「はーい。」と受け流して生活していけるけど、心の奥底にある心情に触れる出来事があると、、、ご主人はその間に入って大変ですね。

A そうですね、当時は週末の夜になると主人に、「そこに座って聞いてくれる」ってみたいに(笑)今日あったことや昨日はこれこれこうだったんけど。どう思う?なんて会話よくしていましてたね。主人は「わかった、そんなに思い込まなくても大丈夫だよーとか。むこうもそんなつもりはないと思うよ、、、わかった言っとくよ、だからもうちょっと我慢してよー。」なんて主人は上手く私の間に入っていつも聞いてくれていましたね(笑)。私は23才で嫁入りして義理の両親と同居や子育てなど、様々な対応を迫られる環境の中で人として女性として母として妻として成長していける機会はあるけど、同じ年の主人にはきっと私ほど速くは家庭の問題に対処しきれなかったこともあったと思う。主人はその中でよく頑張って理解に努めてくれて感謝ですね。

Q そこでストレス発散してバランスとっていたんですね。これって他人事にはとても思えません。。。

 

A  まだ二世帯住宅って言葉がないころでしたからね、今さっき杉田さんに「人生は松戸市から始まったんですね。」と他人から言われて、そうだなと改めて思いました、納得。

Q お子さんが大きくなるまでこの状況が続いたんですか?今に繋がる転機はいつごろ始まったのですか?

 

A  そうですね。しばらくは続きました。転機は主人の経営する設計事務所が経営不振になり畳むことにしたあたりから、今まで外で働くことを反対していた主人の両親も、子育ても一段落したこともあり「外で働いてくれると助かる」みたいなことになってきて復帰したんです。この時期にいろんなところで勤めました。幼稚園以外にも早期教育の会社に7年ほど勤めて教えていました、ここは私の考えとはかなり異なるとこでしたが今につながる貴重な体験で勉強にもなりました。この頃は自分で何かをしようなんて考えたこともなく、誰かの役になればいいなとしか考えていませんでした。だから主人の両親の介護も私の大切な役割だと思っていたので、介護と仕事の両方をできる環境を優先できることを一番にしていました。

Q という事はですね。20代で幼稚園の教諭資格を取得してから、約40年以上経っていて途中15年ほど家庭に入って、40才になる前に復帰。それから15年ほど色々な施設で働いて経験を積んで50代ぐらいで現在の「ぽんておうちえん」に関わるって感じですか。

 

A そうですね。アバウトにそんな感じです。ちなみに保育士の免許も介護資格もあります。

Q それで現在の「ぽんておうちえん」のはいつ頃始まったのですか?

A ある日、買い物に駅まできた帰り道に、たまたま通りかかった事から始まったんです。

A ちょうど幼稚園の仕事をやめたばかりで仕事をしていなかった時期で。「今度の仕事は保育園もいいかな。」と何となく考えていたんです。そんなある日買い物帰りに店舗改装工事らしきのドアの張り紙に、「認可外 預かり保育園準備中」と書いてあたので中にいる人に思わず声をかけたのがキッカケにでした。

 

そこは28才の若い男性2人が親から受け継いだ会社から利益が出たので、この資金で世の中のためになるようなことをしよう!と介護施設か無認可保育園を悩んで保育を選び、まさに保育園を経営するために物件を借りて改装中の時に私が覗き込んで、声をかけたことから始まったんです。

 

まだスタッフも募集していないタイミング。すでに2年ほどの保育園の実務も経験していましたし保育士の資格も持っていました。これはチャンスと「ぜひ私に任せてください!」とお願いしたら「こちらこそ、お願い致します。」すぐに快諾していただき話はトントン拍子に進みました。

 

「ぽんておうちえん」の名前は由来は、「子供達に架け橋」になる願いを込めて、イタリア語で架け橋を意味する「ポンテ」使って「ぽんておうちえん」とこの二人の経営者が付けた名前なんです。

Q 「ぽんて」名前の意味は知っていましたが、名付けた経緯はそうだったんですね。先生が名付けたのかなと思っていました。

 

Q それでどうして今の「ぽんて」のようになったのですか?

A それが2年ほど経ったころ、彼ら2人から本業の事業が経営不振で、今後は本業に専念するため「保育園を閉鎖したい。」、、、話の流れで私に「このまま、ぽんてを引き継いで欲しいい」となって来ました。。もうそれはびっくりでした。園児約18名ほど、まだ私には施設の家賃を払って経営を引き継ぐ自信はありませんでした。検討の結果ほかの保育園へ園児を転入さる方向で動くことになって、園児の受け入れ先を探すことになり園児のほとんどは行き先が決まりました。しかしどうしても4人の園児だけ転入の条件が整わずに困ってしまいました。親御さんからも「先生どうにかなりませんか?」「困っています。」、私もだんだん「ここまで来たら見捨てることはできない。」となってきて、それでこの4人の園児の受け入れ先のために物件を探すことになったのです。

愛情が溢れんばかりに笑顔でギューと抱きしめるんです、そのお母さん。

A  当初はこの4人の子供たちを知り合いの、おばあちゃんの家の離れを一時期借りて園児を預かっていました。そんな状況もあり安定して保育をできる場所求めて、いつの間にか物件探しに奔走していました。

 

私はマンションでの保育を経験していて、狭いお庭で朝から夕方までマンションの屋内にいるのは園児も私もツラかったので、土や木があるお庭にはこだわろうと思っていました。そんな時知人から「ある宗教施設に、今は使っていない古い宿舎だった建物があるから聞いてみたら。」と情報をくださって、早速お話を聞いてもらいにその施設に行って事情をお話したんです。

 

その物件は広い施設内の隅にある建物で、確かに物件はかなり古く木造の一戸建で、周辺も草ボウボウ、、でも広い敷地内に樹木が沢山ある自然環境はスゴクいい、「やっぱり自然はいい!ここはいい!」なんて思いながら事情をお話をさせて頂きました。お返事はなんと!「そう言う事でしたら、お貸ししましょう。」となんとありがたいお話。こうしてこの場所に「ぽんて」があるのです。

​Q まさに捨てる神あれば拾う神ありですね。

その他に保育園創設にこだわる動機がありそうですね。しのぶ園長がどうして保育園に力を入れるようになったのかが腑に落ちないんです。幼稚園と保育園の定番のイメージが私の中に漠然とあって先生は幼稚園の先生って感じがあります。

A そうですねー。これは私個人の出来事の積み重ねが今の保育方針に向かわせています。ある保育園の手伝いと家での介護との二重生活の時期があったんです。朝と夕方は保育園にパートで出て、昼は介護の生活。その時の保育園を利用していたある母子がいました。毎朝そのお母さんはお子さんを笑顔でギュッと抱きしめて送り出し、お迎えの時はそれこそ愛情が溢れんばかりに笑顔でギューと抱きしめるんですそのお母さん、毎回毎回本当にギューと。朝と夕方にその姿を見ているうちに「私はこういう人のために働きたい。」理屈抜きにそう思ったんです。

 

これは午後2時すぎには園児が帰り始める幼稚園ではこんな気持ちは感じませんでした、幼稚園では「もうお迎えの時間?もちょっと預かってくださいよー先生」なんてあたり前の光景でした、このゆとりの光景自体を否定したいから例として話しているのでなく、これは私自身の選択の問題なのです。この全く正反対の施設の両方で働いて私はそのお母さんの深い情愛を見た時から保育園の仕事に対してより一層の愛情の気持ちが私の中に強く生まれ、情熱の行き先が幼稚園から保育園になりました。

 

「今日もこの子の笑顔を守ろう。」長い時間子供を預ける親御さんの代わりに、それが私の仕事。

 

あれ以来、私が毎日心がけている事です。これ以外に大切なことなんてないんです、深い意味で。一言では言えないほどこの言葉に詰まっています。

Q しのぶ園長の思い、ちょっと想定外なことも沢山聞けて面白かったです。まだ他にも沢山聞きたいのですがこの辺りで話を一度まとめさせてください。だんだん上手くまとめられるか少し不安になってきました。(笑)

A こちらこそです、杉田さん。ありがとうございました。こんなに自分のこと人に話す機会なんてなかったですから、ちょっと恥ずかしいいけど楽しかったです。そしてスッキリしました。セラピー効果もちょっとありますね。

Q そういってくださると嬉しいです。ありがとうございました!